唯物論的時間T


1992年12月作成の時間論

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作成日 2000/8/17

本題に入る前に、まず、「時間」には二通りあると思います。一つは、カントに代表
される観念論的時間、もう一つは、唯物論的時間です。物理学における「時間」とは、
後者であり、前者ではありません。

前者を唯物論的立場で言い表しますと、こういう事ではないでしょうか。

「時間」とは、認識による「情報量の増加」における「秩序と方向性」である。認識に
よる「情報量の増加」は、決して無秩序に広がっていくものでもなく、一定のスペースに
おいて密度が高くなっていくものでもない。「順序」という「秩序」があり、「流れ」と
いう「方向性」がある。この「秩序と方向性」こそが、観念論的時間の正体である。

さて、それでは、後者の唯物論的時間は、というと、これは、「運動」とセットに
なっています。「運動」を考える上でなくてはならないものが唯物論的時間です。

したがって、唯物論的立場にいる限り、前者がいくら正しくても後者を脅かすものでは
ないというのは明白であります。なぜなら、唯物論的立場においては、「秩序と方向性」
のある「認識による情報量の増加」も、「運動」にすぎないからです。どうみても、
観念論的時間は、唯物論的時間にたちうちできそうもありません。

どうやら、「時間」に対する考察は、「唯物論的時間」の方に的を絞るべきであると思わ
れます。



まず、「運動」とは、あくまでも「存在」のとらえ方であって、「存在」そのものでは
ありません。我々は、「運動」として「存在」を把握しているのであって、「運動」は
「存在」自体ではない訳です。それでは、「運動」は、はたして「存在」をありのままに
とらえているでしょうか? 私は、とらえていないと思います。
その理由として、第一に、「運動」という「とらえ方」における「存在」の基本的状態が
「静止」であるのに対して、実際の「存在」の基本的状態は「動いている」状態であり、
絶対的「静止」状態など無く「静止」は常に相対的である事があげられます。



「運動」においては、「存在」が「動く」と解釈していますが、実は、そうではな
く、「存在する」事と「動く」事は、同じ事なのではないでしょうか。つまり、
「存在する」という事は、「動く」という事であり、「動く」という事は、「存在する」
という事であります。「存在」しなければ、「動き」ようがないし、「動き」ようがない
という事は、「存在」していないといえるのではないでしょうか。



さて、ここで「時間」について触れたいと思います。いうまでもなく、「時間」は
「運動」とセットになっています。「時間」は「運動」とは不可分のものであり、
「運動」という「存在のとらえ方」の中に組み込まれています。なぜそうなのかと
いうと、前にも述べましたが、「運動」においては、「存在」が「動く」と解釈する
からです。「存在」が「動く」と、とらえる事によって「時間」が必要になってくる。
いいかえれば、「時間」は「運動」におけるその「とらえ方」が生んだものといって良い
と思います。しかし、「存在」をありのままにとらえますと、「存在する事」と
「動く事」は同じ事ですから、「時間」が外在する必要がなくなる訳です。もし、
「存在する事」と「動く事」が同じ事ではないとしても、「動く事」は「存在する事」
に含まれているのは明白でありますから、「時間」が外在する必要はない訳です。





補足


「存在」が「動く」とは?


私のいう「動く」とは、「位置が変わる」という意味ではなく、「絶対静止の状態では
ない」という意味です。


物体が動いているとします。そして、二つのはなれた位置、A、B、があるとします。
物体が、Aを通過し、さらにBを通過する場合、「動く」事を「位置が変わる」と
とらえれば、A、と、B、の間には、無限個の位置がある訳ですから、物体は、Bに到達
できないことになってしまいます。

しかし、実際には、物体はBを通過します。このことは、位置というのは、あくまでも
主観が生みだしたものであることをあらわしているのではないでしょうか。「存在」の
周囲に「他の存在」があるのは明白ですが、位置は主観外には、実在しないと思います。

それでは、「絶対静止の状態」とは、どういうものかというと、相対的位置ではなく絶対
的位置が不変であるという現実にはあり得ない想像上の状態です。



「存在が動く」という解釈の根底には、「存在」の基本的状態が「絶対静止」であると
いう思いがあるのではないでしょうか。しかし、実際には、「絶対静止」の状態はあり
えない訳ですから、「存在」の基本的状態は「動いている」状態であるとする認識転換が
必要であると思われます。その認識転換によって、「動く事」は「存在する事」に
含まれると解釈すれば、唯物論的時間、つまり、客観的時間は不必要になります。
「存在が動く」と解釈した場合、「動く事」は「存在」とは別の事になりますから、
「存在」ではない「何か」、つまり、客観的時間が必要になってくる訳です。

「存在」のみ存在し、「存在でないもの」は存在しないとしますと、客観的時間は、明
らかに「存在でないもの」ですから、存在しないという事になります。




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