カント


Kant

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作成日 2002/6/2

「Kant, Immanuel 1724〜1804 啓蒙期ドイツの哲学者。生地ケーニヒスベルク(現在カリー
ニングラード)の大学教授として、旅行せずその地に生涯をおくる。批判哲学を説き、ヘーゲルに
いたるドイツ古典哲学の発端をなした。初期、いわゆる批判哲学以前の時期に、ニュートン力学を
応用した画期的な著作《天体の一般自然史とその理論》(1755)で、従来の機械的自然観にたい
して発展的見地にたつ宇宙観を述べたが、この種の自然認識を、当時かれが受け入れていたライプニ
ッツ・ヴォルフの形而上学で基礎づけようと試みているあいだに、イギリスの経験論、とくにヒュー
ムの不可知論にふれ、感性にはあたえられず単に理性の考案による形而上学的知識の可能性にふかく
疑いをはさむにいたり、理論的認識の成立を経験の範囲にかぎり、これをかれの著作《純粋理性批判》
(1781、篠田訳)で追求した。そして、合理的ではあるが非感性的な独断論を排すると同時に、
感性を基礎としながらヒュームのような懐疑論を克服する道をたて、これをつぎのように説いた。
認識活動をする主観にアプリオリにそなわる感覚における空間と時間の形式、これと同じく悟性にお
けるアプリオリな形式であるカテゴリーによって秩序づけられて、認識が成立すると説く。したがって、
自然の空間的-時間的存在および法則性は、じつは認識活動をする主観-人間から独立に自然じたいがもつ
規定ではなく、主観がとらえたかぎりの<現象界>であり、かれが感覚の起源を外界からの刺激(<触発>)
としてみとめた客観的実在(<物自体>)には達せず、このほうは認識しえないことになり、不可知論の
結果をみちびきだしている。しかしまた、かれが二律背反、すなわち理性が超感性的なものを認識しよう
とする場合におちいる矛盾(世界は空間的-時間的に無限か有限かなど→二律背反)は理性に固有で必然的
な自己矛盾としたのは、ドイツ古典哲学でその後に弁証法的思考を発展させることになった。カント自身
は、自由・霊魂・神という二律背反の一方である超経験的理念を《実践理性批判》(1788、波多野ほ
か共訳)で、実践理性の要請として承認した。そして人間は<可想界>(物自体)に属する理性的存在とし
て自由であり、道徳律に自律的に服すると説いて、<定言的命令>なる、内容を欠いた、まったく形式的な
道徳律をたてた。これは当時のドイツの封建制にたいする市民的自由を抽象的に表現したとみられるが、
具体性のないままにドイツ・ブルジョアの無力さ・みじめさをしめしたものといえる。上記二つの批判書
についで第三の《判断力批判》(1790、大西訳)があり、これは美学と目的論について語られていて、
美を、これがえがきだす内容とはかかわりなく、利害をはなれた快といったぐあいに、形式的なものと規
定し、また前記二つの批判書の主張を調停するものとして自然を合目的とみる目的論的判断力について論
じている。以上のようなカントの哲学思想は、その後、ドイツを越えて広く影響をおよぼし、今日にいた
っている。」

哲学辞典 森 宏一編集 青木書店 より

私はカントが好きだ。カントの慎重さが好きだ。私もカントのように慎重であれば、観念論の立場をとって
いたかもしれない。私が唯物論の立場をとるのは、はっきりいって「勘」だ。それで十分つじつまがあう
からだ。唯物論は間違いなく正しいと確信している。しかし、このホームページの「観念論とコンタクトレンズ」
にしても、主観的観念論にはダメージをあたえられるが、カントの観念論にはいささかもダメージをあたえる
ことはできないのだ。思うに、ひょっとして、カントは唯物論を信じたいのだが、その慎重さゆえに観念論
の立場にとどまらざるをえなかったのではないだろうか。




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