時間論「唯物論的時間U」の概要


「唯物論的時間U」より

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作成日 2008/4/24

唯物論の立場で、実在論と観念論について述べるとともに、「過去」にも言及する。

観念論と実在論を両立させることができれば、認識論上の「認識の対象」に関する問題 の内の一つは、無くなる。そのためには、観念論を否定せず、観念論から脱却し、実在論 が成り立つようにしなければならない。

まず、現象を含めた主観を客観的実在とする。そして、その背後にある物自体を客観的実 在とする。

観念論を否定しないとすれば、物自体と主観とは、全く無関係ということになるから、物 自体と主観は、それぞれ、別々の客観的実在であるということになる。よって、物自体と 主観のみでは、実在論が成り立たなくなってしまう。なぜなら、観念論によれば、現象の 背後にある物自体は、認識することができないからである。物自体と主観のみでは、物自 体を、「物自体に関する現象」に対応させることができない。つまり、物自体と「物自体 に関する現象」が無関係ということになってしまう。そうすると、客観的実在は何らかの 仕方、程度において認識されうるとする実在論を否定してしまうことになる。

そこで、実在論を否定しないため、物自体と「物自体に関する現象」を対応させるに は、「物自体に関する情報」があるとする。 そして、物自体と「物自体に関する情報」と「物自体に関する現象」は、関係がある。

それによって、物自体が認識の対象となりうる。そうすれば、実在論を否定せずに済む。


さて、これによって、観念論を否定することになるかというと、そうはならない。

なぜなら、

物自体と「物自体に関する情報」は、別々の客観的実在だからである。物自体と「物自体 に関する情報」は、別々の客観的実在でなければならない。物自体でもあり、「物自体に 関する情報」でもある。ということはありえない。物自体であれば、それは「物自体に関 する情報」たる資格を失う。「物自体に関する情報」であれば、それは物自体たる資格を 失う。「情報」には、次の二つの性質がある。一つは、情報は、それ自体に関する情報に はなりえないということ。もう一つは、情報の対象になるものは、その情報自体を含まな いということである。これによると、物自体が情報であるためには、その対象が「その物 自体」以外のものでなければならないことになる。したがって、物自体が「物自体に関す る情報」になることはできない。また、「物自体に関する情報」が物自体であるために は、それが情報の対象となっている「物自体」の一部でなければならないことになる。 情報の対象になるということは、その情報ではなくなる。つまり、「物自体に関する情 報」ではなくなる。したがって、「物自体に関する情報」が物自体でもあるということは ありえない。さらに、物自体と「物自体に関する情報」を包括的にとらえ、「大きな物自 体」とした場合はどうかというと、「大きな物自体」の一部が「大きな物自体に関する情 報」になるとすると、「大きな物自体に関する情報」の対象となる「大きな物自体」に は、「情報になっている大きな物自体の一部」は含まれない。

以上の事より、「物自体」と「物自体に関する情報」は別々の客観的実在である。

したがって、認識の対象たる「物自体に関する現象」になる「物自体に関する情報」、あ るいは、認識の対象たる「物自体に関する現象」を生みだす「物自体に関する情報」 は、「物自体」ではない。つまり、「物自体」は認識しえない。また、「物自体に関する 情報」が「大きな物自体」の一部であり、「物自体に関する情報」ではない。としてしま うと、「物自体に関する情報」がないということであるから、「物自体」は情報の対象で はなくなる。つまり、「大きな物自体」の一部が認識の対象になるが、「大きな物自体」 の中の「物自体」は認識の対象ではなくなる。つまり、「物自体」は認識しえない。とい うことにおいて、観念論を否定せずに済む。


このように考えると、観念論と実在論は両立する。


さて、観念論と実在論を両立させるには、

認識の対象となりうる「物自体」を客観的実在とする。
認識の対象となりうる「物自体に関する情報」を客観的実在とする。
「物自体に関する現象」を含めた主観を客観的実在とする。
これらは、それぞれ関係はあるが、それぞれ別々の客観的実在であるとする。

としなければならない。

実在論から逸脱しないためには、これらのみを客観的実在として認める。その際、ただ単 に、「客観的実在」では、どの「客観的実在」の、どの部分を指すのか明確ではないの で、「客観的実在」のうちのどれかを「その客観的実在」と具体的に指定すべきである。 そして、「その客観的実在」以外のものは、徹底的に疑う
べきである。

そのためには、

「その客観的実在」以外のものは、どんなものであるのかわからないのであるから、「そ の客観的実在」は、それに、「その客観的実在」の「実在根拠」をあたえるべきではな く、また、それの「実在根拠」になるべきではない。「その客観的実在」の「実在根拠」 は「その客観的実在」それ自体のみであり、さらに、「その客観的実在」それ自体を「実 在根拠」としているのは「その客観的実在」のみである。「客観的実在でないもの」に は、「実在根拠」は無く、「客観的実在でないもの」は「実在根拠」になりえない。つま り、「客観的実在」にのみ「実在根拠」があり、「実在根拠」になりうるのは「客観的実 在」のみである。

「実在根拠」=それ自体が実在する根拠。

としなければならない。


そうしないと、「客観的実在でないもの」が「客観的実在」になってしまう可能性と「客 観的実在」が「客観的実在でないもの」になってしまう可能性、さらに、「客観的実在で ないもの」が「客観的実在」の「実在根拠」になってしまう可能性と「客観的実在」が 「客観的実在でないもの」の「実在根拠」になってしまう可能性がでてくるからである。 つまり、実在論から逸脱してしまう可能性がでてくるからである。


上の条件を満たすには、


「客観的実在」=「現在の客観的実在」=「現在の存在」=「存在」=「実在根拠」


としなければならない。


なぜなら、主観外の「過去の客観的実在」はそれに関する現象を生みださない。よって、 主観外の「過去の客観的実在」は認識の対象になりえない。認識の対象になりえないものは、 「客観的実在」とすべきではない。「客観的実在」は、現象を生みだす「現在の客観的実在」のみである。

あるいは、言い方を変えて、「現象は疑いも無く在る。そして、過去の客観的実在は現象を生みださない。 よって、現象を生みだしているもので、残るは、現在の客観的実在しかない。」というのはどうだろう。


それでは、「過去の客観的実在」を「客観的実在」たらしめるには、どうすればよいか というと、「過去の客観的実在」は、主観外ではなく、主観内にある。とする以外にな い。「過去の客観的実在」が主観内にあるとすれば、「客観的実在」たりうる。なぜな ら、主観の一部であれば、「客観的実在」であるからである。それでは、主観内にある 「過去の客観的実在」とは、何かというと、それは「過去の客観的実在」という概念で ある。つまり、「あった」あるいは「存在していた」という言葉のもとになっている概念 が、現象を認識することのみによって得られる記憶に、付与されている、または、結びつ いている。あるいは、その概念をその記憶に、付与することができる、または、結びつけ ることができる。これらの概念は、現象を認識することのみによって得られる記憶と結び ついている、あるいは、結びつけることができるが、現象を認識することのみによって得 られる記憶自体ではない。




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